私には一つの解明できない記憶がある。
あれは別府市内の、曾祖母の住んでいた庭での記憶だ。
私は当時小学生だったと思う。
その日は晴れていた。風もなかった。
庭には柿の木があったのだが、そこで一人遊んでいた私は、背後にふと何かを感じた。
見ると竜巻のように風が木の葉を舞い上げていた。透明な何かがそこにはあった。
その日から私は幻聴をきくようになった。
けれども、数日後だったと思う。自慰にふけった後、眠りにつこうとした私は確かに声を聴いた。
「なんだ、こんなものか」
それ以降、幻聴は聴こえなくなった。
幻聴こそきこえなかったものの、幼いころより内向的だった私は想像の世界で遊ぶのが好きだった。
そこにはこの世界とは異なる、もう一つの世界、あるいはさらにその先にある二つ目の世界、というふうに無限の世界が連なっており、それぞれの世界に私の「友人」がいた。
「友人」は人間とは限らなかった。怪獣や、ロボットのようなやつもいたと記憶している。
そこでは空を飛ぶこともできるし、美味しいものを食べることもできる。
魔法だって使うことができる。
ある世界は極端に文明が発達しており、地上百階建てのビルだって建築されていた。
そうした世界で、戦争が起きたり、破壊、そして再生を繰り返しながら、時間が進んでいた。
その異界に入り込めなくなったのはいつだろう。中学二年生の頃だった気がする。
ある日、私は異界に、当時は「仮想現実世界」と呼んでいた。その場所に別れを告げた。
たまに覗いてみることもあった。異界では、夢のように、ある日そこを去った続きを、またそこを訪れた時に見る、また入ってみることができるのだ。
そうした異界の活動は続いていた。けれど私の神経がそこに入ることに限界を感じ始めたのだ。
けれど、今でも私は異界を見ることができる。
異界、それはもはや一つの世界を構成してはいない。
私は「現実」と呼ばれる空間の上からフォーマットするように、別の空間を見ることができる。
私は、想像と妄想を区別する。想像とは、自発的に入り込むことができる異界、そして、妄想とは、意図せずに入り込んでしまった異界だ。
この場合の私がいう異界とは、もちろん想像のほうだ。
現在私が幻視する異界では、現実に存在するものとは異なったものが見える。
それに触れることもできる。あるいは、触れた気になるだけかもしれない。
異界に入り込む方法はこうだ。特定のSF映画、アニメーションなどを集中して見る。集中力がもたなくなりそうになっても、根気強く見続ける。そうすると気分がハイになってくるのだ。すると、自然と足が歩き出す。神経が刺激され、異界が見えるようになる。
けれども、三十近い今の年齢では、異界に入り込めるのはわずか十分程度だ。
やがて疲れてくる。
かつて七万字の論文を一週間で書き上げたことがある。その時の私は、異界にあやつられていた。神経はハイになりっぱなしだったし、異界はもはや想像ではなく、妄想として私を支配しようとしていた。妄想はこう告げる。異界に入り込むと、死ぬぞ、と。
今では落ち着いてきて、また自発的に異界に入ることができるようになっている。
精神が安定してきたのかもしれない。
けれど、異界に入り過ぎるのも問題だ。なぜなら、現実のつまらなさが際立ってくるからだ。
だから私は異界に入る時間を制御している。現実界のものを食べたり、運動してみたり、そうした行為が私を現実に留めている。
幻視者とはこういった行為が可能な者をいうのだろうか。だとすると幻視者も楽じゃない。
幻視を続けることは容易いことではない。なにしろ、疲れる。その時はハイになったとしても、継続させるのは難しい。
けれども可能性は秘めている。現実界とは異なるものを視る才能は、新しい発見に繋がるかもしれない。