2016年12月16日金曜日

ゲンシシャという作品

 別府のアーティストたちから、リュウゴクさんは何か作らないの? とよく聞かれる。
 小説を書け、特に私小説を書けなんて言われるけど、小説なんて書いたら神経衰弱が悪化して死にかけるのが目に見えているし、ましてや自分のことをさらけ出すのが大の苦手な僕にとって、SFは書けても私小説なんて到底書けない。

 僕にとっては、ゲンシシャが作品なのだ。
 その物の配置の仕方、蒐集している本や古写真、オブジェ、そういった驚異の部屋であるゲンシシャ自体が僕の作品なのである。
 ゆえに、売上なんてさほど気にしていないし、自由気ままにやっている。
 シュヴァルの理想宮なのだ。
 僕がもっとも尊敬するアンドレ・ブルトンが讃えたあの「宮殿」だ。
 ゲンシシャはそれに限りなく近く、法科大学院を出ながらわけのわからないことを続けるアウトサイダーである僕の、 行き着いた境地なのだ。

 ゲンシシャにシステムはない。
 けれども、構造みたいなものはある。今日はそれについて書く。
 まず一番外側に本がある。世間的にゲンシシャは古本屋であるから、本を扱っている。
 Twitterなんかで紹介している綺麗で素敵な画像をたくさん載せた本だ。
 そして、その内側に古写真、絵葉書がある。Instagramに主に載せている、僕の趣味全開の、奇形、死体、少女、芸者、そして発禁をキーワードにして集められたアイテムだ。
 僕が古写真を蒐集するうえで、ポイントにしているのが、人の認識を撹乱することだ。
 奇形児や死体を見て、グロテスクと思い、隠蔽されたものの発現は人の意識に変化をもたらす。
 そして、アメリカの日本人収容所や、人類館事件の写真はある人達の神経を逆なでし、ある人は怒り、ある人は泣き、悲しむ。
 アスタルテ書房でのトークイベントでいわれた「画像の暴力性」にとても意識的なのが僕だ。
 一枚の画像が一人の人生すら狂わせるかもしれない。それだけの力がある写真を選び、集めている。
 そしてその最も核にあるのが、僕だ。つまりゲンシシャは僕なしではあり得ない。だから従業員も雇わないし、いつも机には僕が座る。

 ゲンシシャは僕の精神構造を明らかにしてくれる。表向きは、綺麗で、素敵、高級志向、落ち着いていて、物静か、けれども内部は、激しく、暴力的で、怒りや憎しみに支配されている。

 ある意味究極の自己満足だろう。
 そこから、僕は精神を、価値観を撹乱させる画像を投げかけ、問いかける。
 これがゲンシシャの基本的なスタイルだ。

2016年12月3日土曜日

石原慎太郎というアーティスト

 石原慎太郎、今の若い世代からすると石原都知事のイメージが強いだろう。
 マチズモ、といったイメージが大変強く、朝鮮人らに対する差別発言も度々問題になった。
 そして現在、豊洲新市場の問題でふたたび、悪い意味で、脚光を浴びている。
 裕次郎の兄、芥川賞作家として人気を博した独裁者は、トランプ氏とも比較されている。
 彼は一体何者なのか。

 石原慎太郎はかつて、澁澤龍彦によって、大江健三郎と共に未来の日本文学を背負って立つ男として、名前を挙げられたことがあった。
 何を隠そう、石原ファンの私は、中学生の時、かの有名な『太陽の季節』と同じ文庫に入っている『処刑の部屋』を読んでいたく感銘を受けたものだ。サディズムと自由奔放さが入り交じった、当時の人々に与えた「新しさ」が今でも感じられる良い小説だった。
 次に読んだ『完全な遊戯』も素晴らしい。最近の慶應義塾や千葉大医学部の学生たちによる輪姦事件を彷彿とさせる、まさに新しく、そして普遍的な小説だった。
 中でも私のお気に入りは『聖餐』だ。AVを超えたAV、人間の欲望の極致を探る、バタイユ的な傑作長編である。『聖餐』を石原文学の最高傑作に推したい。
 かつて福田和也に高得点をつけられた『わが人生の時の時』もショートショートだが、秀作揃いなので、ゴーティエなどが好きな方にはぜひ読んでいただきたい。幻想文学に、日本固有の土着性が上手く反映された、それでいて俺様気質が伝わってくる、なんとも小生意気で頼もしい作品集だ。

 それに比べて田中角栄のことを書いた『天才』はどうだ。駄作だ。ゴーストライターが書いたものなんじゃないかとも思う。大体文体じたいがおかしい。あれは世に出してはいけなかった。『生死刻々』あたりでやめておけば良かった。

 前置きが長くなった。
 石原慎太郎は青少年育成保護条例の件もあって、表現者の敵として捉える人間が多い。
 表現規制推進派の中でも特に槍玉に挙げられた人物だろう。
 週刊誌に連載を持ちつつ、ゴシップネタを書かせない、まさにメディアをコントロールする「天才」は、 表現を上手く操ってきたと私は思う。
 都知事在任中に書かれた『聖餐』を読んでも、彼は表現者として、決して性を抑圧するつもりはないということが見て取れる。
 ではなぜ表現規制を推進するのか、それは彼の二面性、政治家と小説家の姿を上手く自在に使い分ける表と裏、その裏では自由な性を謳い、表では抑圧するかのように見せかけた、そういうことだったのではないかと考える。
 彼は自分を演じるのがとてもうまい。その点ではトランプ氏にも勝っている。強い、男根主義の、差別主義者を、支持率を高めるためにわざと演じていたのだ。

 その一方で、アーティスト石原慎太郎は、創造意欲も旺盛だった。首都大学東京や新銀行東京といった名前からして独創的なシステムを新しく構築し、世に問うてみせた。それがコケたからといって、石原氏にとってはどうでもいいんじゃないか。作ったことに意味があったのではないか。創造主になりたいというのは、アーティストなら誰しも思うことだ。
 新しい「東京」 を作りたかったのではないかと思う。かつてナポレオンがパリの街を作り変えたように。石原慎太郎のアーティスト魂は文学に留まらず、フィクションに我慢できずに、リアルに、歪な形で創造の手を着手させたのだ。
 石原は首都大学東京創設の際にインダストリアルアートコースを新設した。あの「ドブスを守る会」で世間を騒がせたところだ。結局、石原氏はアートを志していたのではないだろうか。もちろんそうだ。若い頃に描いたあの酒鬼薔薇聖斗を彷彿とさせる絵を見てもわかる。ヒトラーが、美大受験に失敗した、けれども石原氏は、作家として活躍すると同時に権力者の地位を得ることにも成功した。その意味で石原氏はヒトラーすら超える。

 石原都知事は芸術家・石原慎太郎でもあった。その点をもっと再評価してもいいと思う。
 様々な人間の心に残った一人の男、石原慎太郎。妻典子さんとのエピソードも実に純粋で、心惹かれる。なにはともあれ、魅力がなければ都知事を四期も務められない。
 今一度、研究者たちが石原氏を評価して欲しい。少なくともトランプ氏よりはアカデミック寄りな石原慎太郎を持ち上げるまではいかないまでも、評価せずに悪戯に蔑ろにするわけにはいかない。
 稀代のアーティスト、石原慎太郎を、芸術家としての姿から語ってくれる論客の登場を、私は今か今かと待ち望んでいる。