2017年2月21日火曜日

二丁目の思い出

 東京で過ごした10年間で、特に印象深かった場所はいくつもある。
 拠点を構えた多摩センターや代々木上原、足繁く通った表参道、 赤坂、六本木。
 中でも別府に帰郷する前に度々訪れたのが新宿二丁目だった。
 今回は、その二丁目の思い出を記そう。

 新宿二丁目にはphotographers' galleryという若手の写真家が集まるギャラリーがあって、画廊巡りが趣味だった僕にとって、そこに立ち寄ることが二丁目に足を踏み入れるきっかけになった。
 偶然、写真家の荒木経惟と遭遇したこともあった。 後進の作品をちゃんと見ているのだなと思ったものだ。

 次に二丁目に足を踏み入れたのは、いつものとんかつ、そう新宿ではとんかつを食べる頻度が高く、伊勢丹そばの王ろじや、伊勢丹の中にある匠庵でよく食べていたのだが、ちがったものが食べたいという友人のリクエストで行ってみた、いわゆるゲテモノ系の店だった。
 名前は忘れたが、豚の性器が食べられる店だった。あの体験は強烈な印象を残した。

 そして、二丁目といえばのゲイバーに初めて入ったのは、法科大学院の友人に連れられて、だった。初めて入った店は仲通りに面した観光客向けの店だったが、店員が福岡の市役所を辞めてゲイバーで働いていると聞いて、なんだか不思議な魅力を感じた。安定した職場を離れてもなお生きていく魅力がある街、極端にいえばそんなことを考えた。そしてその店員がインテリで、なんでも知っていたのも印象的だった。
 それからというもの、悪友と共に様々なゲイバーをまわったものだが、結局行き着いたのは、芸大出身のオペラ歌手がママをしている少し不思議な店だった。 
 六人も入れば満員になる狭い店だったが、薄暗い照明と、どこか淀んだ空気が好きだった。
 店に来る客も、大学教授や会社の社長など社会的に高い階層にいる人たち、そしていかにも悪そうな小気味の良い若者たちだった。
 覚醒剤をやってるんじゃないか、そんなラリった二十歳前後の青年が来て、いきなり服を脱ぎだし、乳首を出して弄るように催促してきたことがある。 それでもオジサンたちは喜んでその要求に応えてあげる。そんなアナーキーな、素晴らしい場所だった。
 ゲイのカップルが、別れただの、新しい彼氏を見つけたいだの、経験豊富な40代のママに相談し、バイトの青年が笑顔を振りまく。一緒にデュエットして、夜を明かす。
 正月にゲイバーに行った時には、ミックスバーで年越しパーティーがあって、ゲイもレズビアンもノンケもみんな混じって夢中で踊りまくった。一方で、行きつけのゲイバーでは着物で正装した常連客が厳かな雰囲気で入ってきて、年越しうどんをみんなで食べた。

 ゲイバーは火事になれば一瞬で灰になりそうな、とても古い建物の一室にあった。そんな儚さが好きだ。その下の階では、会員制のSMバーがあり、防音ドアがあつく空間を閉ざしていた。
 ママは、副都心線が新宿三丁目を通ったことで家賃があがり、地上げも起きていることを話していた。もしかして、二丁目自体が儚く消えてしまうかもしれない。 
 けれどもその砂上の楼閣で、北海道や九州から観光客が訪れ、また二丁目のマンションの住民たちが紛れ込んでくることもある。近所のガチという有名なつけ麺屋ではノンケのカップルが何食わぬ顔で麺をすすっている。
 こんなに混沌としていて、それでいて安全な場所を僕は知らない。歌舞伎町との間にも境界があり、またゲイバーのママたちは初見の客に「組合の人?」とたずねてさりげなく牽制する。ゲイ同士、レズビアン同士が節度を守って生きている。
 だからこそ、崩れそうな建物の中で毎晩酒を酌み交わすことができるのだろう。それにしても最高の街だった。