2017年6月6日火曜日

『夜空はいつでも最高密度の青色だ』

 東京の夜空は本当に青いのだろうか。
 劇中で見える、満月が浮かぶ夜空はたしかに青い。けれども、現実に見た夜空が本当に青いのか、私は知らない。そもそも空を見上げることすらせず、ビルの煌々とした光に紛れて、夜空は意識することすらないからだ。だが、夜空はきっと青い。そう思わせるリアリティがある映画だった。

  主人公の女性、美香が居酒屋でトイレに立ち、戻ってくると、友達の女と男二人組が、美香とヤれるかどうかを話している。東京では、特に居酒屋ではよく見る光景だ。東京人は、即物的で、金と性欲とに正直に生きている。街では理性的な都会人を装っていても、プライベートでは野生を剥き出しにするのだ。
 その相手役の男性、慎二は、ニューヨークで司法試験に受かったという幼馴染の女と会う。女はためらうことなく慎二に年収を聞き、予想よりあまりに低いその金額に女は驚きを隠さない。学歴と年収、特に学歴社会が完全ではなくなった今、年収は相手を推し量る重要な要素だ。二人はホテルに行くが、慎二はセックスに向き合わない。草食系男子とは一昔前に流行った言葉だが、性欲に関心を示さない慎二は、現代の若者のステレオタイプだ。それから、女は嘘をついていたことを告白する。幼馴染だろうと、たとえばSNSで知り合った相手などには、平気で嘘をついて自分を大きく見せようとする。女もそんな現代人の典型だ。

 美香と慎二は、緊急地震速報をもう慣れてしまったように無表情で聞き、原発から漏れる放射能におびえている。けれど、特に何をするわけではない。
「いやな予感がするよ」
「わかる」
 そこには共感はあるものの、現状を打破しようとする気概はない。そこがまた、現代の東京人を如実にあらわしている。

 なにより、高い年収をもつサラリーマンの元カレを差し置いて、美香が、工事現場の日雇い派遣である慎二を選ぶところが、現代的だ。年収や社会的地位という指標を差し置いて、同情と共感を結婚の条件にする、同じ空虚感をもつ者同士が緩やかに関係を築く。今の若者のありのままの姿を描いている。
「じゃあ私と一緒だ」
「じゃあ俺と一緒だ」

 美香と慎二は、美香の田舎にある実家に挨拶に行った後、東京に戻ってくる。なぜだろう。いっそ田舎で暮らしたほうが楽なのではないか。 経済的にはそうかもしれない。けれど、母親に捨てられた負い目を感じている美香にとって田舎は決して居心地がいい場所ではないし、慎二も淡々と日雇い派遣を続けていく日常から離れる勇気もない。
 小市民的ともいえる現代人。特にこの映画は、東京でしか成立しない。ありのままの東京の若者の生き様を描いている。
 そして、生き地獄であるかのような若者の人生を、演出や、演じる俳優によっておしゃれに見せている。その上辺だけの薄っぺらいオシャレ感こそが、なによりも東京らしいのだ。

 この映画は、若者が見て、「わかる」と共感するための作品なのだ。
 私は地方都市である大分でこの映画を見たが、果たして彼らはこの映画の本質を理解しただろうか。
 東京の、漂流していく、現代の若者でしか味わえない心の動きを、繊細に表現している。
 だからこの映画の評価はきっと二つしかない。
「わかる」か「わからない」か。
 その先にあるだろう思索を語るのは、もはや若者ではない。